祈る言葉を知らず

秋の風は少し冷たく澄んでいて、まもなく訪れようとしている冬の存在を告げていた。

 朝の練習は相変わらずの時間だが、いつもよりも長く感じるのはこの冷たい空気のせいか。

 ふとそんな事を思いながら、柳の瞳は噂の一年生を追っていた。

「あ、柳せんぱいっ!」

 するとその視線に気が付いたのか、入部したての頃からは考えられない程人懐こい笑みを浮かべ、赤也が走り寄ってきた。
 そのまま腕に絡み付いてくる。

「うー。今日は寒いッスね。あー、柳先輩あったかいや」

 ぎゅ、と腕にしがみ付かれて思わず笑みが漏れた。くせ毛の頭を撫でると、予想に反してふわりと柔らかい感触。

 秋の空の。
 この透明な感覚に魅せられて、自分の心までも透明になったような感覚がした。
 きっと今、その心に映るのは、この少し生意気な、けれど可愛い後輩の姿だろう。

「ほら。もう少しだ。頑張れ」

 ぽん、と背中を撫でてやると、はい、と返事をした赤也は秋の空の下に駆け出した。
 冷たかった赤也の腕が残したのは、意外にも柔らかい温もり。
 失われたその温もりを愛おしむかのように、そっと自らの腕に触れてみる。


 いのる言葉を知らず。


 ふと、以前読んだ本のある一節が、心のうちに蘇った。


 『いのる言葉を知らず
 ただわれは空を仰いでいのる
 空は水色
 秋は喨喨と空に鳴る』


 この透明な空の下で。
 この、透明な空の下だからこそ。
 知った想い。
 この心の指し示す場所は。



「赤也…」

 小さくその名を呼んでみる。
 そして確信した想い。
 告げられる機会があるとしたら、やはりこの秋の空の下でだけだろう。




 放課後の部活も終わり。
 後片付けに走る一年生の中から、赤也の姿を捜す。
 その瞳はすぐにその姿を捉え、柳は声を掛けた。

「赤也」
「…あ、柳先輩。何ッスか?」

 彼はすぐに走り寄ってきた。
 そして朝のように、その腕にしがみ付く。

「う〜。夕方も寒いッスねぇ。どうしてこんなに…」

 言いかけた言葉は、途中で遮られた。
 腕を伸ばした柳が、その細い肩を抱いたからだ。
「せ…せんぱい?」
 驚愕と戸惑いがその抱いた肩から伝わってきたけれど、柳はそのまま優しく抱くだけの抱擁を続ける。
「…赤也」
「は、はい?」
「俺は、お前が…」


 その後に続けた言葉は、たった三文字。

 けれど、途端に顔を紅くして俯く姿が愛おしいと思った。
 戸惑うように、伸ばされた腕が柳の背に回される。

 まだ幼さを感じさせる彼には、その言葉を返す事は出来なかったけれど。

 その、縋り付くような腕に込められた力は、決して否定的なものではないだろう。

 今は、それだけで充分だと心底思った。


 きっとここから、始まるのだろうから。